動物は、自分の利益を優先して行動するのでしょうか。それとも、仲間や集団のために自分を犠牲にすることがあるのでしょうか。

鳥が仲間に危険を知らせるために警告声を上げるとき、その鳥は敵に見つかる危険を冒しています。ミツバチやアリの働き手は、自分では子どもを残さず、女王の子どもを育てたり、巣を守ったりします。アブラムシの中には、侵入者を攻撃する役割を担い、自ら繁殖することなく死ぬ個体さえいます。

こうした行動は、自分自身の子どもを残すことだけを基準にすると、説明が難しくなります。自分の繁殖を犠牲にしてまで、なぜほかの個体を助けるのでしょうか。

この疑問に答える重要な考え方が、包括適応度(inclusive fitness)です。自分自身が子どもを残すことだけでなく、血縁者が子孫を残すのを助けることも、遺伝子が次の世代へ伝わることに貢献する場合があります。

この視点に立つと、利他的に見える行動と、自分の遺伝的な利益との関係が見えてきます。ただし、動物が遺伝子のことを意識して計算しているわけではありません。進化の過程で、どのような性質や行動が受け継がれてきたのかを考えるための理論です。

1. 自分の子どもを残さない動物たち

仲間を助けることは、自分の利益に反するのか

適応度という考え方では、個体がどれだけ自分の遺伝子を次の世代に伝えられたかが重要になります。自分で子どもをつくり、その子どもが成長して繁殖すれば、自分の遺伝子を後世に残すことができます。

ところが、動物の世界には、この説明だけでは理解しにくい行動が数多くあります。

たとえば、鳥の群れが餌を探しているとき、敵の接近に気づいた一羽が警告声を上げることがあります。その声を聞いた仲間たちは、危険を察知して一斉に逃げます。しかし、警告を発した個体は、自分の存在を敵に知らせることになり、かえって危険にさらされる可能性があります。

自分だけが助かればよいのであれば、黙って逃げるほうが安全に思えます。それなのに、なぜ仲間に知らせるのでしょうか。

同じような問題は、哺乳類の群れでも見られます。ニホンザルでは、危険を知らせる声が群れの中で伝わり、個体たちが退避する行動につながることがあります。シカも、尾を立てて白い部分を目立たせながら逃げることがあり、周囲の個体が危険を察知する手掛かりになります。

こうした行動は、仲間を助けるという点で利他的に見えます。しかし、警告を発した個体が助けている相手は、必ずしも血縁関係のない仲間とは限りません。そこに、包括適応度を理解する手掛かりがあります。

働きバチや働きアリは、なぜ自分の子どもを残さないのか

利他的な行動を考えるうえで、さらに大きな謎となるのが、ミツバチやアリなどの社会性昆虫です。

ミツバチの働きバチは、花から花へと飛び回って蜜や花粉を集め、巣の中では幼虫を世話し、巣を守ります。アリの働きアリも、餌を運び、巣を整え、幼虫を育てます。外敵が侵入すれば、危険を冒して攻撃することもあります。

それにもかかわらず、働きバチや働きアリは、自分自身の子どもを残す役割を担わないことが多くあります。繁殖の中心となるのは女王などの生殖個体であり、働き手はその子どもたちを育てることに力を注ぎます。

個体が自分自身の繁殖成功を高めることだけで進化を説明するなら、これは不思議な現象です。自分では子孫を残さず、ほかの個体の繁殖を支える性質が、どうして世代を超えて維持されてきたのでしょうか。

「働き手が多い集団ほど、集団全体が生き残りやすいからだ」と説明することもできます。しかし、それだけでは、個体自身の繁殖を重視する適応度の考え方との関係がはっきりしません。

この難問に新たな道筋を示したのが、イギリスの生物学者ウィリアム・ハミルトンでした。

2. ハミルトンが示した血縁淘汰という考え方

自分が子どもを残さなくても、遺伝子は残る

ハミルトンの着想は、自分自身が子どもをつくらなくても、血縁者が子どもを残せば、自分と共通する遺伝子が次の世代に伝わる可能性がある、というものでした。

私たちは、親から遺伝子を受け継ぎます。そして、同じ親から生まれた兄弟姉妹も、同じ親の遺伝子を受け継いでいます。そのため、兄弟姉妹は、互いに共通する遺伝的な特徴を持っています。

たとえば、自分が子どもを残さなくても、兄弟姉妹が子どもを育て、その子どもたちがさらに子孫を残したとします。その過程で、自分と共通する遺伝子が次の世代へ伝わることがあります。

もちろん、兄弟姉妹の子どもは、自分の子どもと同じ遺伝的な構成を持つわけではありません。自分が子どもを残す場合と、兄弟姉妹を通して遺伝子が伝わる場合では、共通する遺伝子が受け継がれる確率が異なります。

それでも、血縁者を助けることが、結果として自分と共通する遺伝子の伝達に貢献する場合があるのです。

血縁度とは何か

血縁淘汰を理解するための基本概念が、血縁度です。血縁度とは、二つの個体が、ある遺伝子を共通して持つ確率や程度を表す考え方です。

一般的な二倍体生物では、親から子へ遺伝子が伝わる確率は、特定の遺伝子について平均的に考えると2分の1です。親が持つ遺伝子の組み合わせのうち、どちらが子どもに伝わるかによるためです。

同じ親を持つ兄弟姉妹も、平均すると遺伝子の約半分を共有します。ただし、これはゲノム全体で平均した値であり、兄弟姉妹がすべての遺伝子を同じように持っているという意味ではありません。

血縁度の代表的な目安を整理すると、次のようになります。

関係血縁度の目安
親と子1/2
実の兄弟姉妹1/2
祖父母と孫1/4
おじ・おばと甥・姪1/4
いとこ同士1/8

この数値は、一般的な遺伝様式を前提とした平均的な目安です。血縁度が高い相手ほど、共通する遺伝子を持つ可能性が高くなります。

そのため、血縁者を助ける行動は、助けられた個体自身の繁殖を通じて、自分と共通する遺伝子が次世代に伝わる可能性を高めることがあります。

血縁淘汰は、集団全体の利益を重視する理論とは異なる

血縁淘汰は、仲間を助ける行動が進化する理由を説明しますが、その中心にあるのは集団全体の利益ではありません。

重要なのは、助ける側と助けられる側の血縁関係です。自分と遺伝子を共有する可能性が高い相手を助けることによって、共通する遺伝子が次世代に伝わる機会が増える場合があります。

つまり、見かけ上は自分の繁殖を犠牲にしていても、遺伝子の伝達という広い観点から見れば、その行動が進化上の利益をもたらすことがあるのです。

これは、動物が集団や種の存続を目的として行動していると考えることとは異なります。集団の維持に役立つ行動であっても、その行動がどのような条件で進化し、維持されてきたのかを、個体間の血縁関係から説明しようとする点に特徴があります。

3. 包括適応度とは何か

自分自身の繁殖と、血縁者を通じた繁殖を合わせて考える

自分自身が子どもを残すことで得られる遺伝的な貢献だけでは、動物の行動を十分に説明できません。血縁者を助けることで、共通する遺伝子が次の世代に伝わる可能性も考える必要があります。

そこで登場するのが、包括適応度です。

包括適応度とは、自分自身の繁殖を通じた遺伝的な貢献と、血縁者の繁殖を助けることによる遺伝的な貢献を合わせて捉える考え方です。

自分自身が子どもを残すことによる貢献を直接適応度と呼び、血縁者を助けることによる貢献を間接適応度と呼ぶことがあります。包括適応度は、こうした直接的・間接的な貢献を統合して考える枠組みです。

たとえば、ある個体が自分の繁殖を一部犠牲にして、兄弟姉妹の子育てを助けたとします。その援助によって兄弟姉妹がより多くの子どもを育て上げられれば、援助した個体と共通する遺伝子が次世代へ伝わる可能性も高まります。

この場合、援助した個体自身の子どもの数は増えていません。それでも、血縁者の繁殖を通じて遺伝的な貢献が生じる可能性があります。自分の子どもの数だけを見ていると見落としてしまう利益を、包括適応度は捉えようとします。

働きバチや働きアリの行動をどう説明できるのか

この考え方を社会性昆虫に当てはめると、働き手が自分では繁殖せず、女王の子どもを育てることにも、進化上の説明が与えられます。

働き手が世話をする幼虫は、自分と遺伝的なつながりを持つ個体です。働き手自身が繁殖しなくても、血縁者が成長して繁殖することで、共通する遺伝子が次世代に伝わる可能性があります。

そのため、働き手が巣を守り、幼虫を育て、外敵と戦う行動は、個体自身の繁殖だけを基準にすると損失に見えても、包括適応度の観点からは進化上の利益を持つ場合があります。

ただし、働き手が血縁者を助けているからといって、どのような社会性昆虫でも、すべての働き手の行動が同じ仕組みで説明できるわけではありません。昆虫の性決定の仕組みや血縁関係、繁殖の構造には種による違いがあります。包括適応度は、こうした違いを検討するための理論的な枠組みです。

アブラムシの兵隊は、なぜ自分の子孫を残さずに死ぬのか

包括適応度の考え方は、社会性昆虫のような複雑な社会をつくる動物だけでなく、アブラムシの一部にも関係します。

アブラムシには、外敵が集団に侵入すると攻撃する特殊な幼虫がいることが知られています。こうした個体は、通常の個体とは異なる役割を担い、集団を守るために働きます。自ら成虫になって繁殖することなく、兵隊としての役割を果たして死ぬ個体もいます。

このような行動は、自分の子どもを残すことだけを適応度と考えると、説明が困難です。自分では繁殖せず、危険を冒して集団を守る行動が、どのように進化したのでしょうか。

包括適応度の観点からは、兵隊個体が血縁者を含む集団を守り、その血縁者が繁殖することを通じて、共通する遺伝子が次世代に伝わる可能性を考えられます。

つまり、兵隊個体自身が繁殖しなくても、血縁者を助けることによって遺伝的な貢献を果たす場合があるのです。

4. 利他的な行動は、本当に利己的なのか

警告声を上げる鳥の行動を考える

危険を知らせる鳥の警告声は、包括適応度を理解するうえでわかりやすい例です。

敵が近づいたとき、一羽が警告声を上げれば、群れの仲間は危険を察知して逃げることができます。しかし、警告を発する個体は、敵に自分の存在を知らせることになり、危険を冒す可能性があります。

警告を発する個体が助ける相手に血縁者が含まれている場合、彼らが生き残り、繁殖することは、警告を発した個体と共通する遺伝子が次世代へ伝わる機会につながることがあります。こう考えれば、警告声を上げる行動が進化する可能性を説明できます。

ただし、群れの仲間がすべて血縁者であるとは限りません。血縁関係のない個体を助ける行動には、別の仕組みが関わる場合もあります。警告行動のすべてを血縁淘汰だけで説明できると決めつけず、どの個体がどのような状況で警告を発しているのかを調べる必要があります。

巣を守るために敵を引きつける鳥

地上に巣をつくる鳥の中には、敵が近づくと、親鳥がけがをしたように見せかけて巣から離れ、敵を引きつける行動をするものがいます。これを偽傷行動と呼びます。

敵が親鳥を追いかければ、巣にある卵やヒナから注意がそれます。その間に、卵やヒナが襲われる危険を減らせる可能性があります。

親鳥は自分の身を危険にさらすため、外から見ると、仲間や子どものために自分を犠牲にする利他的な行動に見えます。しかし、守られているのが自分の子どもであるなら、その子どもが成長して繁殖することは、親鳥自身の遺伝的な貢献につながります。

この場合、親鳥の行動は、直接適応度と関係する行動として説明できます。血縁者を助ける行動と、自分の子どもを守る行動は、包括適応度という広い枠組みの中で理解できます。

「利他的に見える」と「進化上の利益がある」は両立する

ここで大切なのは、利他的に見える行動が、必ずしも進化上の利益を持たないわけではないという点です。

ある個体が危険を冒して別の個体を助けたとしても、その行動によって助ける側にどのような影響が生じるかは、状況によって異なります。助けられた個体が血縁者であれば、共通する遺伝子が次世代に伝わる可能性があります。一方、血縁関係がなくても、過去に助け合った相手から将来助けられる可能性などが、行動の進化に関係する場合があります。

したがって、「利他的な行動はすべて利己的だ」と単純に言い換えるだけでは、説明として不十分です。包括適応度が示すのは、個体自身の繁殖だけを見ていると理解できない行動でも、遺伝的な貢献という広い観点から分析できるということです。

5. 包括適応度から見る「利己」と「利他」

動物が遺伝子を計算しているわけではない

包括適応度を理解するときには、「動物は自分の遺伝子を残すために行動している」という表現を、文字どおりに受け取らないことが重要です。

鳥が仲間に警告声を上げるとき、仲間との血縁度を計算しているわけではありません。働きバチが幼虫を育てるときも、自分の遺伝子がどれほど次世代に伝わるかを考えているわけではありません。

進化の理論では、行動の背後に意識的な計画を仮定する必要はありません。ある行動を生じさせる性質が、特定の環境で遺伝子の伝達に貢献し、その性質が世代を超えて受け継がれることで、行動が進化してきたと考えます。

この意味で、包括適応度は動物の心の中にある目的を説明する理論ではなく、行動が進化する条件を分析するための理論です。

包括適応度が高まるかどうかは、単純にはわからない

血縁者を助けることが、いつも包括適応度を高めるとは限りません。助ける側が負う危険や負担が大きすぎれば、自分自身やほかの血縁者の生存・繁殖に悪影響が出る場合もあります。また、助けられた個体が、その援助によってどれほど多くの子孫を残せるようになるのかも、状況によって異なります。

たとえば、危険を知らせる行動によって多くの血縁者が助かる場合と、警告を発した個体が敵に襲われ、ほかの血縁者も助からない場合とでは、遺伝的な結果が違います。

さらに、援助がなかったとしても、助けられた個体が自力で生き残れた可能性もあります。援助によって繁殖の成功がどれほど変化したのかを、現実の自然環境で正確に測定することは容易ではありません。

したがって、包括適応度は、どの行動も必ず利己的だと結論づけるための万能な説明ではありません。行動による利益と負担、血縁関係、繁殖への影響などを具体的に検討するための枠組みです。

「母性愛」や「兄弟愛」をどう考えるか

包括適応度という視点は、動物の親子関係や兄弟姉妹の関係を考えるうえでも示唆的です。

親が子どもを守り、育てる行動は、子どもが成長して繁殖することを通じて、親の遺伝子が次世代へ伝わることに関係します。また、兄弟姉妹を助ける行動も、血縁者を通じて共通する遺伝子が伝わる可能性に関係します。

ただし、これによって親の愛情や兄弟姉妹への思いが、心理的な意味で存在しないことになるわけではありません。進化生物学が説明するのは、行動や性質が進化してきた背景であり、個体が実際に経験する感情のすべてではありません。

動物の行動を進化の観点から説明することと、その行動が当事者にとってどのような感情を伴うのかを考えることは、別の問題です。包括適応度は、親子や兄弟姉妹の関係を冷たい利害計算に還元するための概念ではなく、血縁者を助ける行動が進化しうる仕組みを説明するものです。

6. 包括適応度が進化論にもたらしたもの

個体の利益と集団の利益を区別する

包括適応度が重要なのは、自分自身の子どもを残すことだけでは説明できない行動を、進化の枠組みの中で考えられるようにした点です。

働きバチや働きアリは、自分自身の繁殖を犠牲にしているように見えます。しかし、血縁者の繁殖を支えることで、共通する遺伝子が次の世代に伝わる可能性があります。鳥の警告声や、親鳥が敵を巣から引き離す行動も、血縁関係や繁殖への影響を考えることで理解しやすくなります。

この説明は、集団全体の存続に役立つ性質が、集団にとって有利だからという理由だけで進化したと考える立場とは異なります。血縁者を助ける行動も、遺伝的な貢献という観点から分析できるのです。

利己と利他は、見た目だけでは判断できない

動物の行動を観察すると、自分だけが利益を得る行動もあれば、自分を危険にさらしてほかの個体を助ける行動もあります。しかし、外から見た行動の印象だけでは、その行動が進化した仕組みを判断できません。

自分の身を守る行動が、結果として群れ全体の生存を助ける場合もあります。反対に、仲間を助ける行動が、血縁者の繁殖を通じて行動した個体の遺伝的な貢献につながる場合もあります。

包括適応度の考え方は、こうした行動を「利己的だから悪い」「利他的だから善い」という道徳的な評価から切り離し、どのような条件で進化するのかを分析するための視点を与えます。

もっとも、進化上の説明ができることと、その行動を人間社会で正当化できることは同じではありません。自然界で進化した行動を、人間がそのまま模倣すべきだという結論は導けません。

遺伝子を残す仕組みは、一つではない

包括適応度は、自分自身の繁殖と血縁者を通じた遺伝的な貢献を合わせて考える理論です。しかし、動物の社会には、血縁関係だけでは説明しきれない協力も存在します。血縁関係のない個体同士が互いに助け合う場合や、群れの中で協力することによって個体が利益を得る場合もあります。

そのため、動物の協力や利他的な行動を理解するには、血縁淘汰だけでなく、相互扶助や生態環境、社会構造なども考慮する必要があります。包括適応度は、あらゆる行動を一つの原理だけで説明する答えというより、個体自身の繁殖だけでは見えなかった進化の経路を示す重要な考え方です。

7. 自分のために生きることと、仲間を助けること

包括適応度という概念が示しているのは、動物の行動を理解するときに、「自分の子どもを残すこと」だけを基準にしてはいけないということです。

働きバチは自分で子どもを残さなくても、血縁者を育てることで遺伝的な貢献を果たす場合があります。鳥が警告声を上げる行動や、親鳥が敵を巣から引き離す行動も、助ける相手との血縁関係や、その後の繁殖への影響を考えることで理解しやすくなります。

この考え方によって、見かけ上は自分を犠牲にする行動も、進化の過程で維持される可能性があるとわかります。ただし、それは動物が自分の遺伝子を意識しているという意味ではありません。また、すべての利他的な行動が血縁淘汰によって説明できるという意味でもありません。

自分の利益を追求することと、仲間を助けることは、必ずしも正反対ではありません。血縁者を助けることが、遺伝的な貢献につながる場合があるからです。

包括適応度は、利己と利他を単純な対立関係として見るのではなく、個体自身の繁殖と血縁者を通じた繁殖を合わせて考えることで、動物の社会に見られる複雑な行動を理解する道を開いたのです。